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塾長のプロフィール
小中学生に教えるというのは、実に、何十年振りでしょうか?学科のハウツーだけを教えるというのであれば、僕は、すでに中学生の頃から特に算数など教えていたようです。大学在学中は、高校生に、数学や物理学などを教えていました。大学に入りますと、数学や物理学が高校生のときとは比べ物なら無いくらいレベルが急に上がります。でも、やればやるだけ奥が深いですからとても面白いです。そうした、若い頃の数学や物理学、特にこの物理学の思考力が今のシステム開発に目に見えないところで、とても役立っています。また、そうしたところの力は、やはり、読書を通して身に付いたものだとつくづく思います。そうした意味で、私の経歴を眺めていただければ幸いです。
大学ノート 実習論文 卒業論文
 塾長のDNA-ルーツ
塾長が編集しているネットブログその他HPの情報一覧は下記の内容です。
書物からの回帰考えて考える科学との出会い美の果てにあるもの楽曲への伝言

マイテックの徒然草
あれこれの木こもれびの日々ウェルナー少年少女合唱団ショルティ塾長マイテック
塾 長 略 歴 と コ メ ン ト
1972年4月/アイホン株式会社に入社  (インターカムでは、トップメーカー)
技術部 技術開発プロジェクトに配属となる。当時、上司である東主任、鈴木豊治氏の下でLAM,LAF拡声式インターカムの新製品開発を手がける。

後に、信頼性試験部門が設立され、上司の原正雄氏の下でこの部門の立ち上げが行なわれ、製品及び電子部品等の信頼性評価試験を行う。この時期は実例のない新しい試みばかりで試行錯誤で取り組む。

オイルショック時期、営業戦略として、国内市場拡大のため営業拠点づくりが行なわれる。その為、大阪営業所の仮配属を命ぜられ、京都営業所開設を、当時、上司の大矢幸男氏と共に担う。

全社をあげてのデミング賞受賞を目標にした方針により、TQC推進が活発となり福岡支店に配属となる。
大分県、北九州市を担当。
デミング賞受賞決定後福岡支店にて新しく発足した市場開拓の新ポストを担当する。
この時期、アイホン株式会社では、世界初の全自動電子交換機の開発に成功している。これは、ビクターの音響工学で権威ある富田先生の紹介による早稲田大学の講師と実務プロジェクト担当の松本氏、横田氏の二人で実現することができた。また、この頃ハンドフリーの開発にも力が注がれた時期でもある。当時としてのアイホンは電電公社に無い有線通信技術に挑戦していた。
 
また、デミング賞という品質管理においてとても厳しい審査にも挑戦し、受賞することができ、これはアイホンが中小企業から大企業に脱皮する道程でもあった。アイホンの創業者である市川利夫氏は、この全社的品質管理を導入することに心血を注がれました。
1982年9月/アイホン株式会社を退職する。
私の関心が、セットメーカー(完製品などを作るメーカーを指す)から、デバイスメーカー(素材部品メーカー)に次第に傾斜していったこともあり、もっと色々な世界が知りたいということで飛び出しました。
 
そのときは、福岡支店のみなさんとても温かく送ってくれました。今でもそのことに関してはうれしい気持ちと感謝の気持ちで一杯です。
 
アイホン在職中は、同僚はもちろん、上司の方々も親切で人情味があってとても良い方ばかりに恵まれて、楽しい思い出をたくさん頂きました。技術部にいた頃は、皆さんと御岳などにスキーに行ったことがとても懐かしく思えます。
 
当時は、中堅企業でしたので社内旅行は大掛かりでしたが、今となってはとても楽しい思い出となっています。家族的なムードの中で、毎年、あちこちに宿泊したときを懐かしく思います。
 
今でも、当時のアイホンの皆さんとは多くの年賀状を交わしています。
1982年9月/ローム株式会社に入社  (ロームのデバイスは世界の多くの電気製品に使われている)
 ロームが九州の拠点作りに取り組むに当たって、日刊紙の新聞による募集(採用1名)を行い、これに採用される。

 西日本地区新規開拓担当として、九州、四国、山口における新規開拓を担当する。

主なる新規開拓企業として、長府製作所、九州日立マクセル、九州ミツミ、安川電機、九州電機製造、京セラ国分、京セラ隼人、ニシム電子、などがある。  
この頃のローム株式会社は、上場企業としての発展をねらって大きく飛躍した時期であった。当時、九州では半導体としてのICなどの生産が各メーカーの進出で行なわれていたが、電子部品メーカーの営業拠点づくりに関しては、競合各社ともうまく行かないところがあり、ロームは敢えてこれに挑戦する意味で九州の営業拠点づくりを行なった。私の実績としては、新規市場開拓、製品キャンペーン等で1位となり社長賞を授賞する。
 
ローム株式会社の創業者である佐藤研一郎氏は、音楽の道から電子業界への道に切り替えられたピアニストでしたが、音楽に対する想いはとても強く、世界的指揮者の小沢征爾との交友を深められ様々な音楽活動に支援をされました。私も、高校生の時ピアニストのクラウディオ・アラウの演奏を直で聴き、感動し、ピアノを高3から大学時代まで習ったことがあり、学生時代から佐藤研一郎氏のことは知っていました。ロームに入るきっかけは、ピアノが好きな創業者であったことが一因でもあります。
1988年5月/ローム株式会社を退職する。
ローム株式会社では、様々な電子部品生産拠点があったので本社(ウェハー加工)も含めて、色々な生産工場を直に見ることができ、大きな視野を得ることが出来ました。そして、九州でのセットメーカーの技術者の方々と楽しく仕事をさせて頂いたことは、とても勉強になり、今でも感謝致しています。
 
また、ロームの場合もアイホンの時と同じように、とても素晴らしい上司や同僚に恵まれ、とても可愛がってもらいました。大好きなお酒を飲む機会も多く、気前のよい上司にも恵まれていて、その点、とても有り難い環境でした。今でも多くの年賀状を営業関係だけでなく、生産、開発の皆さんと交わしています。
 
ロームもアイホンもその後すぐに、東証一部上場を果たし、一流企業として大きく躍進したのも、そうした立派な人々がおられたからだと思います。企業は、つまるところ、"人"だと思います。
1988年5月/マイテック有限会社を設立する。
現在、様々な地域企業の経営、技術開発、IT推進、品質管理など様々なソリューションに対してのサポート及びソフトウェアのシステム開発などを行い、創立23周年目を迎えました。
結婚すると同時に、昔、海のきれいな印象だった旧福間町に想いがありました。当時、それで出来たばかりの光陽台の家を買って住むことを決めました。サラリーマンとしては転勤がつきものですから、マイホームを持つということにはリスクがあります。
 
しかし、若い頃は名古屋、東京、大阪、京都などの土地を散々味わってきましたから、結婚したら地元に落ち着きたいという気持ちが強くありました。家を買う時は転勤になるかもしれないという覚悟はしていました。でも、そのときは独立しょうと自然と心から決めていました。独立のきっかけはそうした心の流れもあって転勤の話が出ないうちに独立してしまいました。退職に当たっては、上司からはあたたかい特別な配慮を頂きました。それは今でも感謝致しております。
  
今、思うと、やってきたことがすべて未知への挑戦ばかりでした。そうした新規の業務展開ばかりに携わったお陰で幅広い業務経験と技術力をもつことができました。それが地域にお役に立てばと思って仕事を始めて以来、現在(2010年3月時点)で独立からもう23年経ちます。
 
ビジネスは、"人と人との関わり合い"があるから面白いと思います。
一方、昨年から始めた塾では教えるべきことがハウツーだけでなく、本質に迫ることを一緒にやっていきたいと思っています。そうしたことを通して子供とのふれあいを大切にしています。これもまた唯一の楽しみでもあります。